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スケート・クラブの泥沼(アーティスティック・ローラースケート)


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こんにちは。カルメンです!今回はスケート・クラブの泥沼事情をお伝えしたいと思います。オーストラリアのアーティスティック・ローラースケートのクラブの話です。

 


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    アーティスティック・ローラースケート

 

スケート・クラブの泥沼

アーティスティック・ローラースケート

娘がやっているのが、上の写真のようなアーティスティック・ローラースケートというもので、アイススケートと同じようなものですが、氷上ではなく、床の上でやるわけです。

 

お金はかかります。コスチュームやイタリア製のスケート・シューズもそうですが、何と言っても練習のためのスケートリンク代がすごく高いです。バスケットボールのコート3つ分ほどの広さは必要だからです。

 

どのスケート・クラブもその資金調達のため四苦八苦しなければなりません。クラブ会費を上げてしまうと人が入ってこないからです。

 

チームワーク

スポーツをやっている人は、健康のためやっている場合でなければ、上を目指して頑張っている人が多いと思います。娘のスポーツ・クラブも例外ではありません。州大会で勝ち抜いて、全国大会を目指す。その後は、オーストラリアの代表に選ばれて国際試合や世界選手権のひのき舞台で活躍するのを夢見ます(アーティスティック・ローラースケートはオリンピックの種目ではありません)。

 

個人種目より、団体の方が、競争率が低い分、上に上がりやすいです。じゃあ、どんどん団体で出ればいいじゃん、って話になりそうですが、いいスケーターを複数集める、という作業も結構難しかったりします。

 

しかも、団体ってチームワークですからね。このチームワークって、なかなかどうして、難しいもんだな、と今回つくづく思いました。

 

クァルテットとショーグループ

娘のスケート・クラブには、団体でクァルテットとショーグループのチームがありました。クァルテットは4人、ショーグループは8人で構成されていました。娘は今年、大学に入ってショーグループの練習に参加できないと思ったので、1年前に抜けて、クァルテットだけに参加していました。

 

クァルテットの他の3人はショーグループのメンバーでもありました。ところが、1番できるスケーターが、仕事がみつかったのを期に、州大会を最後に辞めると言って、本当に辞めてしまったのです。クァルテットもショーグループも一人足りなくなったのです。

 

州大会では金メダルを取って、全国大会に進めることになったのに、全国大会まであと2か月しかないのにです。しかも、全国大会への出場申請は、それから1週間以内に提出しなければなりませんでした。

 

コーチは、今年の初めに諸事情で辞めたスケーターを連れてきて、クァルテットとショーグループの両方にあてがいました。でも、このスケーターのレベルが辞めたスケーターと比較するとだいぶ低かったのです。それでも、これはコーチの決断だったわけですよね。

 

クァルテットの方は彼女を受け入れました。でなければ、全国大会に出場できませんでしたから。ところが、ショーグループの方はこれを不服として、フェイスブックのページ上でそれはひどい誹謗中傷を繰り返しました。

 

結局、期限ぎりぎりで全員申請を出して、全国大会には出場し、国際試合に出場できる権限も得たのです。ところが溝は埋まるどころか、更に広がっていきます。

 

ニュージーランドの国際試合に出場するための申請期限ぎりぎりで、4人がショーグループを辞めると言ってきたのです。そのうち一人は既にライバルのスケート・クラブに移ってしまいました。ショーグループに残った4人のうち、3人は娘とともにクァルテットで出場するのでオーストラリア代表にはなれるのですが、あとの一人は行けないことになりました。

 

なんで?オーストラリア代表となれる権利を捨ててまでする意味があるの?わかりません。他のスケーターたちにもクラブをやめるよう、手をまわしているらしいです。

 

スケート・クラブの会員数が減れば、収入源が減って、スケートリンク代が赤字になる可能性大いにあります。スケート・クラブの存続が危ういです。

 

まとめ

スケート・クラブの泥沼は今回が初めてではありません。スケート・リンク代をクラブが滞納して追い出されたこともあります。それで、資金集めに精を出し、戻ろうとしたら、今度は、洪水でそのスケート・リンクが壊滅的なダメージを受けました。

 

結局、市の援助で2年後くらいに復活はしましたが、そのときのスケート・リンクのオーナーとの亀裂は修復せず、そこでスケートすることはできなくなり、数々のスケート・リンクを転々としたこともあります。

 

やっと落ち着いたスケート・クラブは資金を増やすため、たくさんのコーチを受け入れているところでした。当然、多くのスケーターたちが練習しており、全国大会前などは、邪魔されたりなどの意地悪が横行しました。

 

大喧嘩の末、二つのスケート・クラブに分離しました。そして今に至ります。なかなか難しいですね。ため息。

 

 

 


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