カルメンの国際結婚雑記ブログ

オーストラリアや英語、スペイン語やメキシコの情報を発信しています!

三木弘(みきひろむ)絵画展・横須賀美術館で2018年12月から4か月間開催


海外ランキング

こんにちは。カルメンです!今回は三木弘の絵画展についてのご案内です。横須賀美術館で2018年12月から4か月間開催されました。三木弘の生涯についてもご紹介いたします。

f:id:KonkatsuSupporterCarmen:20180809145328j:plain

 

三木弘の絵画展・横須賀で2018年12月から4か月間開催

上の画像が三木弘の絵画です。すごく好きです。生き生きとしていて、元気をもらえる気がします。三木弘の絵には、鶏が多いです。ちなみに私は、生きている鶏は、実を言うと、あまり好きではないのです。だけど、三木弘の鶏の絵は大好きなんです。なんでですかねー。不思議です。

 

f:id:KonkatsuSupporterCarmen:20180809151353p:plain

 上に掲載しているのは、横須賀美術館のパンフレットの内容です。

 

場所:横須賀美術館

〒239-0813 神奈川県横須賀市鴨居4丁目

 

会期:

2018年12月22日(土)~2019年4月14日(日)

休館日 1月16日(月)、2月13日(月)、3月2日(月)、4月1日(月)

10時AM~18時PM

 

観覧料:

一般300円、高大生・65歳以上200円、中学生以下無料

 

横須賀美術館への行き方は以下のリンクをご参照ください。

利用・交通案内:横須賀美術館

 

 三木弘の絵はこちらでご紹介しています↓

carmenzakki.hatenablog.com

 

 

三木弘の生涯

この鶏を描いた画家はどんな人なのかな?と思った方のために、三木弘の生涯について下に記しておきます。

 

1900年5月8日  和歌山県岩出に生まれる。父は熊之助、母はかつえ。実家は金時屋という宿屋(参勤交代の一の陣で本陣)を営んでいた。

 

1906年     韓国に移る。(伊藤博文と親交のあった熊之助は慰留民団議員として活動。栄町に総合病院を建て経営。家は明水台に桃の山を買い、その一部に建設し、桃仙閣と命名

 

1918年     洋画同志会に出展。京城日報で賞讃される。

 

1920年     来青閣(京城日報の二階)で初個展。東上する。太平洋画研究所に学ぶ(師は中村不折、岡精一)。

 

1922年     本郷洋画研究所に学ぶ(師は岡田三郎助)。中央美術展入選。

 

1923年     樺太新聞社で個展。関東大震災が起こり、韓国・京城に戻る。

 

1924年     「日鮮洋画会」を結成(三木弘、高木背水、野宇健、高木章、小川七五三二)。第一回展。

 

1926年     「馬頭路洋画会」第一回展(三木弘、村上美里)。フランスに留学し、アカデミー・ランソンに学ぶ(師はビッシェール・ロッシュ)。

 

1927年     京城に戻る。(来青閣にて、三木弘渡欧後援音楽界あり)

 

1928年     明治町に移る。個展(美術倶楽部)。滞欧作品頒布画会を組織する。三木弘滞欧作品展(丁子屋)。

 

1929年     個展(丁子屋)。

 

1930年     「京城洋画研究所」を開く。

 

1931年     個展(丁子屋)。三木弘主催「帝展京都陶芸家美術陶器展」(丁子屋)。

 

1932年     個展(平壌にて)。三木弘他15名の画家から山田新一氏への抗議文が「朝鮮日々」に抗議決議記事として掲載。明水台に移る(168坪、ドイツ風のヒュッテを取り入れた家)。

 

1933年     第12回朝鮮美術展覧会にて昌徳宮賜賞。

 

1934年     洋画展(三越)。

 

1935年     第14回朝鮮美術展覧会において推薦作家となる。個展(釜日会館)釜山。

 

1936年     個展(総督府図書館ホール)。八景八勝画展(三越)三木弘、村上美里、山田新一、加藤松林人、宇野、逸雲、松田正雄、遠田運雄、堅山坦。

 

1937年     三木弘染色美術個展(鐘紡サービスステーション)。型成美術協会結成(三木弘、戸張幸雄、加納辰夫、猪川克己、村上美里、佐藤九二)創立展(三越)。

 

1938年     第17回朝鮮美術展覧会において参与となる。個展(三中井)。

 

1939年     第18回朝鮮美術展覧会(参与)。

 

1940年     第19回朝鮮美術展覧会(参与)。

 

1941年     第20回朝鮮美術展覧会(参与)。京城美術家協会(のちの朝鮮美術家協会)を結成(三木弘、山田新一、日吉守、堅山坦、江口敬四郎、遠田運雄、戸張幸雄、五十嵐三次、濱口良光、大橋寛、浅川伯教)。

 

1942年     第21回朝鮮美術展覧会(参与)。第1回半島銃後美術展。朝鮮南画連盟結成会員展(丁子屋)三木弘、堅山坦が参加。

 

1943年     第22回朝鮮美術展覧会(参与)。

 

1944年     第23回朝鮮美術展覧会(参与)。決戦美術展(審査員)。

 

1945年     終戦。引き揚げ後、京都に住む。

 

1946年     都新聞社に美術記者の職を得、制作を再開する。

 

1947年     自由美術家協会の会員として、制作活動する。

 

1954年     都新聞社を退職。「汎美術」を発刊する。第1号は2月10日に発行。

 

1961年     自由美術家協会を退会。無所属となる。

 

1967年     3月、東京の銀座資生堂にて個展。6月、自宅より出火、作品を消失するも、山口家で再制作。ロック・フェラー財団招待による、アメリカでの個展を行う。11月病に伏す。

 

1974年     「思い出の朝鮮半島からー民族とは何かー」を誌す。

 

1982年     死去。

 

2015年     「日韓近代美術家のまなざし」に作品展示。

 

まとめ

三木弘のお弟子さんである、画家の原みる様より、三木弘の作品が日本の美術界において忘れ去られないよう、インターネットによって世に広めるようお願いされました。私には、三木弘の作品を世に広められるだけの力がありませんが、もし、ここまで読んでくださった方がいらっしゃいましたら、ブックマークなど、拡散にお力添えいただけますととてもうれしく思います。

 

 

 

ありがとうございます(^^)

 

 


備忘録・雑記ランキング