こんにちは。カルメンです!今回は、オーストラリアで19世紀に白人女性が、5年間カウラレッグ島民やアボリジナルの人たちと生活した事実の話をご紹介しようと思います。クィーンズランド州の北、トレス海峡諸島の話です。
カウラレッグ島民と19世紀に生活した白人女性の話
バーバラがカウラレッグ島民と生活することになった経緯
1837年、バーバラ・クロウフォードが6歳位のとき、家族とともに、スコットランドからオーストラリアのシドニーに移住しました。
まだ13歳にも満たないとき、彼女はウィリアム・トンプソンとモレトン・ベイへと逃避し、結婚もしたようです。
1844年、バーバラ・トンプソンと彼女の夫はトレス海峡諸島の方へ難破船の宝探しに船で北上しました。しかしながら彼らの帆船はホーン島沖で座礁したのです。
3人の島民がバーバラを救助してトレス海峡諸島のムラルグ島、またの名を、プリンス・オブ・ウェールス島に連れて行きました。
そこで、バーバラは長老の亡くなった娘が戻ってきたとして、家族として迎え入れられることになります。そして5年間の月日が流れました。
白人社会へ戻る
バーバラが17歳の時、1849年のことですが、ケープ・ヨーク・ビーチにて、調査船のクルーによってみつけられます。
最初、彼女はあまりにも日焼けしていたので、白人だとは気が付かれませんでしたが、彼女の方から英語で話しかけたため、白人であることが判明しました。
調査船のクルーはまず、彼女に男物の服を着せ、髪をとかしてから彼女を船に連れていきました。彼女も島民も、彼女が去ることをとても悲しんでいたそうです。
長老も船に訪れ、長い間優しくバーバラと話していたと、調査船の乗組員であった絵描きのオズウォルドは書き留めています。
オズウォルドによれば、バーバラはカウラレッグ島民に本当に親切にされたそうです。バーバラはカウラレッグ島で結婚はしていないと言ったそうです。
とはいうものの、オズウォルドが書き残した中に、島の名付け親である長老が女の子に「Ootzoo=泥水」と付けたのはひょうきんである、という部分があります。
歴史家の中には、この「泥水」という名前は、赤ん坊の肌の色がそんなに黒くないことを示しており、オズウォルドが、バーバラに子どもがいたことを示唆しているのではないかと指摘する人もいましたが今となってはわかりようもありません。
バーバラはオズウォルドに島での生活の様子を事細かく教えました。手の込んだ道具や武器、生活用品や工芸品、亀などの狩猟の技術、素晴らしいカヌーのことなど。
また、バーバラは先住民の人たちが白人について語ったことも教えました。「白人はかわいそうだ。自分の国がないから船に乗って食べ物を求めてさまよっているんだ」と言っていたと。
白人社会に戻った後の、バーバラのことはわかっていません。
何年か後に、植民地化の嵐はカウラレッグ島にも到達し、白人による横暴な振る舞いがありました。
カウラレッグ島民と19世紀に生活した白人女性の話・まとめ
カウラレッグ島民を含むトレス海峡諸島民やアボリジナルの人たちは、オーストラリアの先住民族です。ヨーロッパから来た人たちに住む場所を取られた傷はまだ癒えていません。
オーストラリアもたくさんの問題を抱えていたりします。