こんにちは。カルメンです!今回は、バタビア号のお話をしてみようと思います。バタビア号は、西オーストラリアの沿岸で難破した舟です。17世紀のお話です。
バタビア号のお話(西オーストラリアの難破船)
フリーマントルの難破船ギャラリー
西オーストラリアのフリーマントルにある、難破船ギャラリーのことはこちら↓
フリーマントル散策・娘たちが狂喜した理由 - カルメンの国際結婚雑記ブログ
で記事にしていますが、そこに展示してある船が難破船バタビア号です。興味深かったそのことを少し書いてみようと思います。
バタビア号
バタビア号は、オランダ東インド商会の大型貿易船でした。1629年に西オーストラリア沿岸で難破しました。
帆船バタビア号は、1628年の10月28日にペルサアートの指揮のもと、オランダ東インド商会トレードセンターがある、バタビア(バタビアは、インドネシアの首都ジャカルタのオランダ植民地時代の名称)に向けて、オランダのテセルを出発しました。女、子どもを含めた316名が乗船していました。
難破
1629年6月4日早朝に船は座礁しました。見張りは前方に白い寄せ波を目撃していましたが、月の光が反射しているのだろうと思ったのです。250人以上の人が、近くの小さな島にたどり着きましたが、水や食料はほとんど持ち込めませんでした。
指揮官ペルサアート及び船長他、46人のクルーが2隻の小舟で翌日、水を探しに出発しました。しかしながら、水はみつからず、そのまま助けを求めるため、バタビア(現:ジャカルタ)へと北上することにしました。
バタビア号が難破する前に、指揮官ペルサアートに対する不満により、商人コーネリスをリーダーとする士官やクルーのメンバーらが謀反を企てていました。そんなこともあって、残された者たちの中で、コーネリスが音頭を取り、ペルサアートが救助船を連れてきたら、それを奪還する計画を立てました。
コーネリスはほとんどの船の兵士たちを表向き、「水を探すため」という口実で、もう一つの島の方へ送りました。それから、自分が支配者であることを残りの人たちに宣言し、謀反の企てに反対するものをすべて殺すよう味方の士官たちに命じました。
もう一つの島に送られた兵士たちは水をみつけることができ、鳥やアザラシ、ワラビー(小型のカンガルー)を食べて生き残りました。大量殺人が他の島で行われているのを生き残った者から聞き、サンゴで分厚い遮へい物を作り、コーネリスからの攻撃に備えました。
そしてコーネリスが本当に攻撃してきた時、コーネリスを捕まえることができたのです。3か月後にペルサアートがサーダムという船で戻ってきたとき、コーネリスの謀反のことを聞き、即座にコーネリスの仲間たちも捕えました。
ペルサアートの不在中、子どもを含む、125人が殺されたと言われています。この島はバタビアの墓として知られていますが、今はビーコン島という名になっています。
ペルサアートは事の重大さに恐れをなし、また、小さな船サーダム号にたくさんの囚人を乗せることができないと判断し、謀反人たちの裁判をその場で執り行うこととしました。
コーネリスは両手を切られたあと、絞首刑となりました。他の者たちも、死刑か、縄で縛って船の底をくぐらせる刑や、むち打ちの刑に処されました。二人はオーストラリアの大陸に置き去りにされ、消息を絶ちました。
ペルサアートは難破により、お金の箱を一つ失ったほかは、東インド商会のものはすべて取り返しましたが、会社からの信用を失ったのは明らかでした。難破船の人たちとともに、島に指揮官として残らなかったということは、批判の対象となりました。
このことと、東インド商会の規則を破って個人的な貿易をしようとしていたといううわさとともに、彼の会社での地位は失墜しました。ペルサアートは翌年亡くなっています。
情報元:西オーストラリア海洋博物館のパンフレットより