こんにちは。カルメンです!今回は「ルクレチア・フロリアーニ」という本のレビューなどしていきます。19世紀のフランスの作家、ジョルジュ・サンド著です。ジョルジュ・サンドと音楽家ショパンは何年も一緒に暮らしていました。この本は彼らの関係を書いたものだと言われています。
ルクレチア・フロリアーニ レビューなど
Lucrezia Floriani by George Sand
19世紀の偉大な音楽家ショパンのことが好きで、ショパンのことを多少なりとも調べたことがある人なら、ルクレチア・フロリアーニの本の存在を耳にしたことがあると思います。ショパンとの関係が終焉に向かっていたときに書かれたこの本は、ジョージ・サンドとショパンとの関係をモデルにしていると言われています。
オリジナルはフランス語で書かれているので私は読めません。日本語で読みたくても出回っていないので、仕方なく英語版を入手して読みました。いや~辞書を片手に、大変な苦労でした。しかも、ジョルジュ・サンドの文体は結構複雑だったり長かったりで、読むの、難しかったです。
でも、面白かったです。っていうか、陰気な話ではありますが、最後の予想外の展開など、さすがジョルジュ・サンド、という感じで、読む価値はあります。
それなのに、ジョルジュ・サンドの本の中では評価が低くて、「魔の沼」や「愛の妖精」のような、日の目を見ていません。ジョルジュ・サンドとショパンとの関係を知る鍵となる要素が含まれているにもかかわらず、です。
ジョルジュ・サンドは小説の途中で、著者としての顔を出す特徴があります。この本も例外に漏れず、本の真ん中辺で、読者に向かって呼びかけています。ハッピーエンディングでない終わり方がお気に召さないのであれば、ここで読むのを止めてください、と。
小説の半分までで、母親を亡くして傷心の繊細なカロル王子が、お金持ちで子持ちの美しいルクレチアの愛情を勝ち取っていく流れになっています。そして、著者の読者への警告の後、物語はルクレチアがカロル王子の嫉妬により、どんなにひどい人生を歩んでいくかという展開になっていきます。
誰もが、ルクレチアはジョルジュ・サンドのことで、カロル王子はショパンのことだと思い、ショパンの友達などは、ショパンに対する屈辱であると憤慨しました。私も実際に読んでみて、確かにこの二人のことだと思いました。
ショパンの反応
でも、ショパン自身はこの本のことを悪く言わなかったと言われています。「ショパンが読んでいなかったとは思いにくいが、無視したのだろう」というのが大半の見解のようです。しかしながら、ショパンは、ポーランドにいる姉に、ルクレチア・フロリアーニが面白いから読むように手紙で勧めています。
私が自分で読んでみて思うのは、全部読んでなかっただろうということです。1日で読み終わるような本ではありませんし、ましてや、フランス語が母国語でなかったショパンにとって、全部読むのは大変なことだったと思うからです。
しかも、ルクレチア・フロリアーニが出版された1846年の頃は、ショパンは幻想ポロネーズ、舟歌、チェロ・ソナタ、ノクターン(作品62)、マズルカ(作品63)、ワルツ(作品64)などの作品を手掛けていたので非常に忙しかったはずです。
フランスに来て10何年の月日が流れており、フランス語は日常会話に困らない程度にはできたはずですが、それでも、文学作品、しかも、ジョルジュ・サンドのような文学的表現を多く用いる著者の作品を簡単に読めたとは思えません。
更には、意図的にか否か、小説の半分までは、後半のエゴイスティックなカロル王子のようには描かれていません。
1847年にパリにいたショパンは、ノアンにいるジョルジュ・サンドから「もう、ノアンに戻ってくるな」的な手紙を送りつけられて関係が終わりとなります。
その後、ショパンはイギリスに渡り、そこから友人へ宛てた手紙に「ルクレチア」のことを皮肉って書いていることがあるので、その頃には読み終わっていたのかもしれません。
ショパンは1849年10月17日に息を引き取りました。ルクレチア・フロリアーニとは違う結末です。
まとめ
ジョルジュ・サンドとショパンとの関係を物語に託して書いているとすれば、それは、ジョルジュ・サンド側から見た関係であることは明らかです。ショパンが好きな人は読みたくもないかもしれません。実際、ショパンが悪く描かれていますから。
でも、ショパンが好きな私が読んでみて、読み終わった後、ショパンが嫌いになるかと言えば、そんなことはありませんでした。ただ、「ああ、こんな状況になっていたのだなあ」とは思いました。
ショパン側からの視点で物語を書けば、全く違うお話になり得ただろうことは容易に察しがつきます。存外、こういった心理的な食い違いってよくあることなのではないかとも思いました。
一つ、言わせていただくと、肝心要のラテン語がわかりませんでした。このころの人たちは皆、ラテン語はたしなみとして理解していたのでしょうか。訳注とか付けていただけたらありがたかったのですが、と思ってしまいました。